祖母への25年間の感謝を発信させてください

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はじめに

こちらのTweetに対して、励ましのお言葉を下さった方々に感謝を伝えたいと思います。

ありがとうございます。

皆さま方とは、実際にお会いしたことはなく、雇われを続けている間は、SNSやブログの発信が限界です。

そのため、実際にお会いしてお礼を伝える事はできません。

もし、わたしに何かの縁があって、今の夢である個人事業を立ち上げることが出来ましたら、オンラインでも構いません。

お会いし、お礼を伝えたいと思っているところです。

他人であるわたしを励ましてくださいまして、

本当にありがとうございました。

それでは、本題の祖母への追悼の発信をしたいと思います。

幼年期と少年期

記憶があるのは、5歳前後からのことでしょうか。

この頃の話は、親族から聞いた話が実体験のように、感じてしまっている部分もあるかもしれません。

わたしには、祖母いわゆる”おばあちゃん“は1人しかおりませんでした。

そう、父方の祖母は若くして、亡くなっておりますので、母方の祖母が”おばあちゃん”という存在でした。

わたしは7,8歳くらいまで、母が仕事が終わるまで、保育園と小学校の終わりに、夜ごはんを食べさせてもらうため、母方の祖父と祖母のところに預けられていました。

今思い返すと、1番鮮明に覚えているのは、

祖母に地元の温泉に夕方連れて行ってもらい、

入浴をした後、

“アイスクリームを買って貰う”

この事が未だに忘れられません。

今はもう、大人になってしまいましたので、

アイスクリームを買ってもらっても、興奮というかなんというか。

あの頃ほどの嬉しさはなかったことでしょう。

おおよそ20年経っても、

やっぱり忘れられません。

そして、祖母自身も甘い物が好きな人でした。

もしかすると、

わたしの味覚もこの頃から、祖母に似て形成されたのかもしれません。

その後、

小学校高学年から野球を始めて、会える機会は少しずつ減っていきました。

でも、

お盆やお正月など、節目の際は必ず会っていましたし、土日に野球が休みの時は、近くの大きい公園にお出かけをしたりしていました。

あれは、小学校の終わり頃かと思います。

近くの大きい公園で、わたしがどんぐりをいくつか拾いました。

祖父と祖母と一緒に、庭に植えてみると、

一本芽が出てきて、

小さな木が生えてきました。

最初のうちは、祖母が水をあげていたみたいです。

徐々にその木は大きくなっていき、

自然に、

家屋の2階と同じ高さまで、成長していきました。

わたしも最初は、祖母からご飯を食べさせてもらっていましたが、

今では大人になり、自分で食事を摂っています。

でも、育ててくれた過程が無ければ、

わたしはこうして、ブログの記事も書いていないかもしれない。

そう考えると、

「ありがとう」

という言葉しか出てきません。

青年期

中学校から高校にかけて、祖母と会う機会はさらに減ってしまいました。

部活をやっていた事、

多感な時期だった事、

これらの事から、おばあちゃんのとこにいける機会は圧倒的に少なくなりました。

けど、

祖母は変わらず、わたしの事を可愛がってくれました。

たまに、会いに行くと、

とても嬉しそうで、145cmだった祖母の身長をすぐに越していった私をとても喜んで出迎えてくれました。

決してお金がある訳ではなくとも、

酒も煙草も嗜まず、

無駄遣いをしなかった祖母。

節約して残した3千円や5千円を、何気なく会うと手渡しくれて、

母には内緒と言い放ち、

「また来い」と言ってくれる祖母。

忘れられません。

僕が高校生だった頃には、最愛の夫で、

わたしの祖父を亡くしました。

でも、僕の前で、悲しむ姿を見せる事はありませんでした。

とても強い人だったと思います。

祖父の葬儀の時も、わたしの記憶が正しければ、泣いていなかった気がします。

やっぱり強い人でした。

その後、わたしは大学に進学し、地元に就職で戻ってきました。

この時は、すごくすごく喜んでいた気がします。

加えて、わたしは結婚予定であるパートナーと、大学で知り合いまして、

その彼女の事をも、自分の孫のように可愛がっていました。

ちゃん付けで呼び、「また来い」といつも言っていました。

もうその声が聞けないのは、とても悲しいです。

幸いにも、現代の技術のおかげで、祖母の声はわたしのスマホにも残っています。

良かったです。

青年期2

僕が地元で働き始めてからは、月に1,2回は会えるようになっていきました。

行く度に、喜んでくれていて、

免許を返納した祖母と買い物に行ったり、お洒落なカフェでご飯を食べたり。

なんだか、近年の事を思い出すと、より一層悲しいです。

祖母は軽い心臓の持病以外、入院や手術歴もなく、近所の同世代の80代の方々より、背筋も伸びていて、若々しい印象でした。

ただ、一度だけ、僕が休日に行った時、

涙ぐむ様子があって、

祖父が亡くなって10年近く経ち、

昔ながらの田舎の大きい家で、1人生活するのは怖いと話していたのが、理由だったと感じます。

80歳を超えて、心身の衰えを自分自身が感じていたことも理由だったかもしれません。

わたしの母からは、一緒に住まないかと、80歳を過ぎたあたりから、

声をかけていたそうです。

祖母はそれを断っていたそうです。

長年、住んでいた家を。

祖父と住んでいた家を。

近所で付き合いのある人が来る家を。

離れられなかったのでしょう。

けど、裏を返せば、周りからみると、軽い心臓の持病以外、認知症状等は一切なく、田舎ではよくいる1人暮らしの祖母でした。

当然、要支援にも該当しないような、健康体だったと思います。

だから、今回の事は未だに、現実的な感じがしません。

1週間前の今頃は、普通に衣食住を1人でこなして、近所のお友達と世間話をしていたそうです。

そして、そのまま何気なく、布団に入ったのでしょう。

そのまま、意識が戻ってくることはありませんでした。

心原性の脳梗塞だったそうです。

発症から2日で亡くなりました。

わたしは祖母が病院に運ばれたと聞いて、

運良く、

直ぐに病院に駆けつけられました。

生きている間に、伝えたい事は伝えられました。

「ありがとう」

「今後頑張るから」

の2つだけを。

後は側にいることしか出来なかったです。

それも、コロナによる面会時間の制限で15分くらい。

でも、

最後会えました。

本当に嬉しかったです。

人当たりが良くて、周りに好かれて、

祖父他界後も、

祖母と話したくて、家に来る人が多かったです。

感謝の言葉は、

沢山本人に伝えたので、

祖母は見ていませんが、

「今後頑張る」

この不器用なひと言だけを最後に述べたいと思います。

長文失礼しました。

最後まで読んでくださった方、

ありがとうございます。

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